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    キメツケの刃/Withコロナ SNSが作り出す「新しい日常」#3

    最終更新日:2023年06月19日

    こんにちは、バズ・アナリストの谷内です。
    コロナ禍で始まった「新しい日常」とSNSとの関わりについての雑感シリーズ、第3回目です。
    よろしかったら、お付き合いください。(前回分はこちらです

    キメツケの刃
    (Withコロナ SNSが作り出す「新しい日常」#3)

    私は日々、バズを見て暮している。
    バズウォッチを始めた2016年からずっとだ。
    そうしていると、多彩な「炎上」に出くわす。
     だれそれの不倫
     だれそれの失言
     だれそれの不祥事
     新商品への疑念…
    いろんな出来事が、炎上の「火元」になる。
    たいていは「ボヤ」程度でおさまる。毎日たくさんのボヤだらけ。
    けれど、時々「炎上」に発展してしまう事案も起きる。
    そんな炎上を通じて感じる共通項は、「キメツケ」の力だ。
    「これは非常にけしからんことだ!」とか「これは絶対に許せない!」とか、なぜかみんなの評価が一極集中する局面、キメツケに向かう局面というものがあって、いったんそこに陥ると抜け出すのはとても難しくなる。
    評価がまだ揺れている局面では炎上は起きにくい。しかし、それが何かの拍子でキメツケに傾くと、炎上はやって来る。

    たとえば、「1,600円のお弁当問題」だ。
    ある公人が、「ランチ会食で1,600円の弁当を頼んでいた」ということで問題にされたことがあった。「高すぎる!」と。

    さて、みなさんにとって「お弁当の値段」とは、いくらが適正だろうか?
     500円?
     1,000円?
     5,000円?
    私はよく、19:30すぎに近くのスーパーでお弁当を買う。半額のシールが貼られたそれは275円のことが多い。3割引きシールで妥協し385円で買うことも多い。新幹線で出張する時には860円のシュウマイ弁当をチョイスしセレブ気分を味わうこともある。
    そんな私にとって、1,000円超のお弁当というのは確かに高額だ。しかし…。

    これが「5,000円の弁当」だったら、文句なく「高すぎ!」とキメツケられる。だが、経験的に言って「1,600円!? うーん、まぁそんな時もあるかも…」と思えなくもない微妙さだ。小奇麗なレストランに入ってメニューを見た瞬間、「どの料理も2~4千円台!?」と驚き、やむを得ず2千円のランチを頼んだことがあった。
    だから「1,600円のお弁当」はギリだ。高いとは決めつけられないギリギリのラインだ。

    実際、多くの人が同様に感じたのだろう。このケースでは炎上には至らなかった。
    この程度のボヤが日常的に起きている。この程度では、ネットは荒れない。
    でももし同じ公人が、翌月にも「2,800円のカツカレー」を頼み、翌々月には「3,900円の鰻重弁当」をオーダーしていたとなったら事態はどうなるだろう?
    きっと評価はバランスを失い始める。「一般市民と感覚がズレている!」とか「国民感情をまるでわかっていない!」とか多くの声が上がりだす。
    しかもランチのあとで「1,500円のプディング」を追加オーダーしていたと知れたら…。
    「高いランチを頼む〇〇さん」というキメツケは、どんどん強まる。
    そしていったんキメツケが定まってしまうと、たとえ「1,200円のお弁当」で済ませたとしても、「まだ高い!」「我が家なんて一日1,200円あれば3食分でもお釣りが来るのに!」等、なにかにつけ非難の矛先が向けられる対象となってしまう。

    きっとみんな、鬼退治したくなるのだと思う。
    「みんなで庶民の金銭感覚を失った〇〇さんを、こらしめてやろう!」という思いで、ツイートは増える。心を燃やすほどの義憤を感じる人たちによって、炎上は始まる。

    「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
    むかし流行ったビートたけしさんのギャグだ。
    たぶん、最初に赤信号を渡ろうとするのは「義憤に燃える」人だ。でも、彼らのあとに続くのは「みんなが渡ってるから私も!」という人だろう。キメツケが増すほどに、追随する人が増える。みんなで渡っているから大丈夫という感覚は、強烈な安心感をもたらす。そして、その安心感が故に「過激化」も起きやすくなる。

    たとえば、話題のアニメ映画があったとする。その評価が好きと嫌いで拮抗していると、自分が感想を書き込む際も慎重になる。たしかに「自分は苦手だった」としても、どこかで「あの作品をもの凄く評価している人もいるんだから、私にはちょっと合わなかったってことなのかなぁ…」ぐらいに遠慮しながらつぶやいたりする。
    しかし、それがレビューサイトで「5点満点中、★評価=0.7点」ぐらいに酷評されているとなると、自分の評価もつい「お金と時間を返して欲しいレベル!」「これは今年度の駄作of the year!」と書き込めてしまう。
    より大げさな言葉で、「盛る」「ディスる」に乗っかっていく感じ。

    私たちはネット上で、自分の意見を発する時、他人の意見や反応をよく気にしている。
    「好きか、嫌いか」
    「認めるか、認めないか」
    「Aか、Bか」
    「左か、右か」
    スタンス表明。それはネットを動かす基本力学だ。でも、スタンスを決めて発言するのは本来覚悟がいること。だから、私たちは用心深く、他人の意見や反応を気にしながら発言している。
    空気を読むのが日常だから、「叩いてもよい」という炎上に敏感になるのかもしれない。
    世の中を正したいという思いは重要だが、時に暴走し、私刑のような、粛清のような攻撃へ発展する。過熱しすぎてもブレーキが効かないことも多い。

    そういえば、バズや炎上について私が痛切に感じていることがある。
    “どっちでもいい”と感じている人はカウントされない」という構造だ。
    考えてみれば当たり前のことだが、“どっちでもいい”人というのは、その事案についてめったに発言はしない。
    「1,600円の弁当をどう思うか」
    まず、これに対し「高い!」と思う人が書き込む。
    次に「いやいや、そうとも言い切れないぞ」と思う人が、反論的に書き込む。
    だが、“どうでもいい”と思った人は、たぶん、書き込まない。

    多数決で何かや、誰かを決めるのが、選挙というシステムだ。
    その選挙には、ちゃんと「投票率」や「無効票」というスコアがある。
    そもそも選挙への関心が低かったり、選ぶべき候補者がいない場合、「投票率」や「無効票」として計測される。
    だが、ネットにはそれがない。
    だから、ネットでの言説は「関心のある人だけ」によって展開され、その中だけで「炎上」が起こったようにされる。ごく一部の賛同者しかいないのに、「炎上」とされるケースもある。

    私はなるべく、“どうでもいい”側の傍観者としてバズを眺めるようにしている。
    ― その炎上は、本当に民意と呼べるほどの「規模」か?
    ― その炎上は、「特定の人たち」によってのみ生成されたものではないか?
    私が毎日、バズばかりを見て暮しているからかもしれない。
    だんだんバズウォッチのスコアを通じて、「本当の炎上」と「炎上モドキ」が見分けられるようになってきた。
    「キメツケの刃」は、発言する人を強くする。次第次第に、発言はキツくなる。
    「悪いことをする自体が悪ではなく、悪いことをするように人にそそのかすことこそ、 “本当の悪”」という説がある。
    鬼は、人の心に住み着く。
    鬼退治したいと願う心は正義であっても、みんなで赤信号を渡る内に、だんだん鬼は住みやすくなるのかもしれない。

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